曹洞宗 恵日山 高伝寺は佐賀県佐賀市にあり、『霊徳寿梅』を初めとし、梅の木の名所として知られております。

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歴史と文化にふれる
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歴史と文化にふれる

龍造寺家の時代(過去から未来に繋ぐ伝承の考察)

高傳寺の歴史と文化
(過去から未来へ繋ぐ伝承の考察)
千年の歴史を刻むとされる高傳寺の歴史は(鍋島家と竜造寺家)との竹の如き“節目”をもって伝えられるところの所以であり、今なお研究と考察の余地が遺されています。
高傳寺の本尊である薬師如来は円仁(平安初期)の作とされ最澄(伝教大姉)との縁(ゆかり)で語られるところの高傳寺の伝承であります。
中世古刹の本尊として祀られていた薬師如来は脇侍の文殊菩薩像と共に一般公開がされていませんでした。
中世から近世に至る歴史を語る仏様として拝観必見の仏像であります。
(平成25年4月19日より公開)

高傳寺の創建について

高傳寺の創建については先行する(龍造寺)との創建についての考察が重要である。
龍造寺初代・季家、文治2年(1186)肥前龍造寺村ノ地頭識タリ」
【史徴墨宝考証】 東京帝国大学編纂
「龍造寺氏は源為朝が九州での威勢のとき佐賀郡に下向してこの地に住み、、かって日本武尊(にほんたけるそん)が乗って来た龍艦がこの地に着岸した由来から「龍造寺」という寺が出来、その起源を平安中期とする。佐賀の国学・歴史書“葉隠”の【龍造寺】に関する記述や【寶琳院縁起】などにより「龍造寺が元明天皇和同4年、日本武尊600回遠忌に際し、行基菩薩を開基として建立」とあり、【龍造寺】建立の場所を佐賀市城内を中心とした範囲、或いは(現在の県議会議事堂)あたりの説を紹介し、天文17年城主龍造寺胤(たね)栄(みつ)が城外北方の白山にこれを移したと伝えられ、のちにこれを高寺とも呼んだ」とされている。」
旧肥前藩校弘道館の教師
(内閣修史館編修文科大学教授)
文学博士の久米邦武

龍造寺家から鍋島家への政権移動

幕藩体制確立【葉隠】と高傳寺
上記の久米邦武博士の説により高傳寺に伝えられている文化財及び伝承「龍造寺家菩提地」に歴史的な正鵠を感じさせるところである。
“葉隠”に記述されている高傳寺創建の内容は鍋島家が龍造寺からの歴史的土壌の継承者であるという公儀(幕府)の承認を獲得してからのものであり、鍋島政権下の仏教政策においてもその背景の成立として必要不可欠なものであったといえる。

中世から近世の移行期(戦国期)における歴史の編纂が幕藩体制確立期という時代背景によるところであり、鍋島藩の国学・歴史書“葉隠”もその範疇を含むところの史学的な背景事情の検証を提供する貴重な資料である

「鍋島直茂の父、祖父清久公(天文21年【1552】)はかねてから信仰していた本庄大明神の夢のお告げで『高傳庵(高楊庵)庵跡に禅寺を建て菩提寺とすべし』を得て子清房を開基とし曹洞宗玲岩玄玻を開山とし慧日山高傳寺と称した。」
曹洞宗由書
高傳寺并末寺

「高傳寺のこと。本庄村に高傳庵(高楊庵)という水上山万寿寺の末寺の跡があった。清房公(直茂の祖父)が知行された時(龍造寺より)高傳庵を菩提寺とされ、直茂公がとりたてられて、父君の清房公を開基とされた。 開基は箱川の妙雲寺の住職であった玲岩和尚である。本寺は長州山口の曹洞宗の瑠璃光と定うめられた」
【葉隠聞書第六】
高傳寺創建に関する“葉隠”記述の考察。
天文年間の肥前は龍造寺の時代である。
龍造寺家の隆勢を築いた水が江、龍造寺家兼(剛忠)は山口の大内義隆との同盟を結び、宗家龍造寺を曾孫の胤(たね)信に継がせた。大内義隆の(隆)の偏諱を胤(たね)信に与えられる。後の龍造寺隆信である
大内家の菩提寺で在った<香積寺>は現在の(瑠璃光寺)の旧跡であり、境内に建立された国宝・【五重塔】は25代大内義弘の供養塔である。
当時の時流として肥前国内における曹洞宗の宗勢進展を担ったのも隆信の曾父・家兼(剛忠)である。高傳寺の創建を検証するうえにおいても重要な事項である。
大内家の菩提寺(<香積寺>(瑠璃光寺の旧跡)と龍造寺家菩提寺<龍造寺>が天文年間における寺院間の本末関係の形であったと考えられる。肥前佐賀で曹洞宗の禅が興ったのも「剛忠の時代」である。
「戦国時代・龍造寺の基礎を固め天文15年3月10日93才で没した。(剛忠)は剃髪後の法名で信仰厚く仁慈に富み武勇であった。永正から天文まで30年間法華経1万部を読誦し法要・経巻を奉納して数々の徳政を施した」後世、肥前佐賀にあっては「剛忠さんの時代」という言い方に特別の意味をもって親しまれたのである。平安~室町期の政治と宗教の儀礼は「鎮守国家」の為でありその行事を行うのが天皇及び地域における領主である。剛忠の時代において中央における国家儀礼のような「千僧御読経」の儀礼が行われていたと言うことは、その様な儀礼を行う為の大寺院が存在していたと言うことでもある。
久米邦武博士が説かれる(【龍造寺】別名【高寺】)創建の考察と合わせると高傳寺に伝えられる伝承にも歴史の息吹が感じられるところである。

「鍋島直茂の父、祖父清久公(天文21年【1552】)はかねてから信仰していた本庄大明神の夢のお告げ『高傳庵(高楊庵)庵跡に禅寺を建て菩提寺とすべし』(葉隠)

天文年間において龍造寺家の客将として頭角を現してきた頃の鍋島家の実状においての検証がなされるべき事柄でもある。
葉隠の成立が1716年であり、遡ること160年前の事柄の聞き書きである。“葉隠”の口述者自身が「ご政道の批判、家中武士の正不正、世の風潮、自分の考えであり、人が見たら、腹を立て、遺憾に思うにちがいないので、必ず焼き捨てるように」の遺言つきの話し事【聞書】である“葉隠”の内容については歴史的検証をもって向き合うことほうがより【葉隠】という名称に籠められた【書】の真価が発揮されることに繋がるのではないだろうか。
天文年間における鍋島の家菩提寺として創建された高傳寺の規模が現在と同じであったか或いは肥前佐賀における僧録寺として幕藩体制上の諸法度の伸展に伴なっての整備が行われたのか。更には又明治4年、11代直大の再建が廃仏希釈の風潮においての影響がどの様なものであったのかは知るところではない。
何れにしても高傳寺創建の由来には【龍造寺~鍋島】両家一体の歴史の継承をもって伝えられところである。
  • 肥前領主 龍造寺隆信

    11代鍋島直大による高傳寺の再建

    高傳寺再建に観る【高傳寺】
    明治4年鍋島家11代直大による高傳寺の再建事業により(両家)の墓所が整備(高傳寺移転)されました。
    幕藩体制が崩壊し明治初年の西洋化が進む【廃仏希釈】の風潮において行われたことは特筆にすべき事です。
    廃藩置県による中央政権の確立は仏教政策を藩政の基盤としてきた鍋島藩のアイデンティティーに関わる処でもあった。危機的な状況への対処において共通する鍋島歴代藩主の文化的政策【釈迦堂奉設、大涅槃図制作】クリック」による原点への回帰がある。11代直大の歴史的視点としての両家墓所の整備により「龍造寺家より鍋島家への歴史的土壌の継承」としての【御両家ご墓所】の形が完成された事になります。

    肥前領主竜造寺隆信
    藩祖鍋島直茂公画像

  • 藩祖 鍋島直茂公

    藩祖 鍋島直茂公



    藩祖鍋島直茂公画像

  • 三代藩主綱茂

    初代鍋島藩勝茂 慶長15年(1610~1657)

    藩政基盤の仏教政策「釈迦三尊像奉設」について鍋島藩が龍造寺家から続く肥前佐賀の歴史的土壌を継承しその政権の精神的支柱を内外に示したのが「「釈迦三尊像」の奉設」であった。曹洞宗高傳寺が鍋島家菩提寺としての歴史を刻んだ時であった。鍋島家の藩主として最も苦難が多かった人として知られている。鍋島藩成立の象徴として「釈迦三尊像御開扉」法要は現在まで引き継がれている。

    鍋島勝茂公画

  • 三代藩主綱茂

    二代藩主光茂 明暦3年(1657~1695)

    光茂の治世は肥前佐賀における幕藩体制の確立を命とするものであったが、しかし、それは、初代勝茂が継承した龍造寺家からの歴史的土壌との葛藤の時代であり、新たな時代を繋ぐ為の思想(武士道【奉公】)を説く“葉隠”の成立を必然とする新たな佐賀藩制の時代でもあった。

    鍋島光茂公画像

  • 三代藩主綱茂

    三代藩主綱茂 元禄8年(1695~1703)

    幕藩体制の確立が整い元禄時代に代表される江戸文化の爛塾期の藩主であり五代将軍綱吉の文治政策を反映した文化的な藩主である。父光茂の藩政において生じた佐賀藩の事情との葛藤を文化的観点の止揚をもって乗り越えようとする藩主の発願によって制作された大涅槃図である。

    鍋島綱茂公画像

  • 歴代藩主

    四代藩主吉茂の時代 宝永4年(1707~享保15年・1730)

    元禄時代の文化的気風に代わり質実剛健を尊ぶ「享保の改革」行われ、長崎を中心とした海防への危機感なども伴い「葉隠聞書」の完成や多久聖廟を建て儒学の普及に努めた。
    この時代に行われた政策は幕末から明治に至る佐賀藩の政治基盤になっているとも言える。

    歴代藩主画像

  • 高傳寺位牌所

    高傳寺位牌所


    高傳寺位牌所画像

高傳寺の歴代藩主の画像は毎歳の4月19日から5月5日の間の「釈迦堂御開扉」の間に高傳寺位牌所にて公開される。

“葉隠”の先導・【大涅槃図制作】発願・三代藩主綱茂の時代

佐賀市重要文化財である高傳寺涅槃図が完成されたのは
宝永3年(1706)10月1日である。涅槃図制作の発願者綱茂の死去をうけて四代藩主吉茂の就任から4年後の宝永7年(1710)3月5日に葉隠の記述が開始されてる。“葉隠”の完成は享保元年(1716)9月10日である。涅槃図完成から10年の歳月を経てのことになる。
鍋島藩三代綱茂の発願した大涅槃図制作の発願事業が秘密裏に行われたと言うことは考えにくい事である。 仏教の徳行としての(発願)は広宣される事に意義があるからである。藩主の思いは領内にも伝わっていたと考えられる。

三代綱茂による涅槃図制作の発願も又、四代藩主吉茂による国学・葉隠の制作意図にも鍋島藩内の「藩士の風紀、意識改革」と言う共通する藩主としての課題は優先にあったと思われる。
然し何よりも徳川の血を引く父光茂の幕藩体制と龍造寺家からの歴史的土壌を引き継ぐ初代勝茂との一体的な土壌の確立こそが求められたのである。
三代綱茂による大涅槃図制作の意図は初代勝茂と父光茂の供養がその目的とされる。そこには希薄した両家(龍造寺・鍋島)の継承と幕藩体制(徳川)との“歴史の流れ”を三家の一体説として唱える新井白石の史観に寄り添うことでもあるが、しかし(龍造寺から鍋島への政権移動)の流れを儒教的な主従の間係で説くことは単なる“逆流”にしか過ぎないものとなる。況や徳川政権とは共に戦国大名の間係でしかない。

涅槃図思想の説く仏教の統一性をもって(世相)に応えようとした藩主綱茂の思想の表れが涅槃図制作の発願なのである。反目する互いの要因を竹の如き“節目”に融合して前に進む必要があったのである。
人間社会の止揚をして(仏教の空思想)に立ち具体の力(方便)が必要とされるのである。
父・光茂の儒教的な政策と佐賀の歴史的土壌の継承者としての祖父・勝茂と繋ぐ接点としての意図を考えるとき、遠い過去からの伝承を媒介とする新たな想いとしての大涅槃図制作があったのではないだろうか。法華経の信奉者で仏陀の知恵と慈悲を信奉した龍造寺家兼「剛忠の時代」を一度領内に呼び起こす必要があったのかもしれない。綱茂が発願した大涅槃図の制作は伝統的な法華経に基づいた【八柱涅槃図】であった事の意味合いは大きいものである。
涅槃図の完成から10年の歳月を経て“葉隠”誕生への先導という役目を果たした文化的な意義を含めて考えられなければならいのである。

例えば“葉隠”の構成として始めの総論に四誓願を整え「四誓願を毎朝仏神に念ずれば、二人力となって後にもどることはない」*校註葉隠
四誓願に続く「夜陰の閑談」は“葉隠”の制作目的としての「国学」の主張が次のように唱えられる「鍋島家の家来であるならば、国学、すなわち鍋島家の歴史、伝統に関心を持つべきである。なぜならば御家の根本を落ちつけ御先祖様方の御苦労・御慈悲をもって、御家が長く保たれている事を理解することである。剛忠様御仁心・御武勇・利叟様の御善根・御信心にて、、、、、、、、」此処に龍造寺から鍋島に移った政権の正当性を承認する(徳川)幕藩体制上の自信のようなものさえも感じることができるのである。
“葉隠”は幕藩体制確立後の佐賀藩士に対するメッセージとして書かれたものである。故に「釈迦も孔子も楠木も信玄も鍋島家に仕えたことはなく、わがお家の流儀に合いはしないのである」
“葉隠”を(奇怪な書)と評した大隈重信はこの書の本質(一面)を語っている。詰り始めの「夜陰の閑談」において龍造寺家兼(剛忠)の信仰心を語り、そこに御家の根本を置いての歴史、伝統の重要性を説きながも(釈迦、孔子、楠木、信玄)の一緒たくをして、「一度も龍造寺・鍋島家に仕えたことはない我が家の流儀に合しないのである」とする目的達成(幕藩体制)後の鍋島藩絶対主義の思想を確立する為の巧妙なレトリックの意表と解釈することは可能であろう。三代藩主・綱茂の制作発願【大涅槃図】に籠められた「龍造寺~鍋島~徳川」の“水の流れ”の如き一体説の土壌には新たなる時代に向き合う為の思想は必然であったのであろう。
綱茂の死後、完成された涅槃図が高傳寺に届けられ綱茂の念願ではなかったかとされる涅槃塔建立が実現されることはなかった。
涅槃図制作の発願の意思と涅槃図完成と言う事実によって既に「龍造寺~鍋島~徳川」御三家による歴史は“水の流れ”の如き一体の新たなる土壌を形成する事が出来たからである。」

葉隠考

「【葉隠】という書の名称については様々の説が言はれています。葉隠(はがくれ)研究の第一者・栗原荒野「校註葉隠」では「他見を憚る秘書であったのである。この点から見ても、そうした気持ちを通わせた意味の『葉隠』であることが肯かれる」

この書の名称の由来について考える時、葉隠の記述者・田代陣基と口述者・山本常朝との約束事として冒頭に次のように書かれている。
「この全部で十一巻の書は、いずれ必ず焼き捨てねばならない。ご政道の批判、家中武士たちの正不正、世の風潮、あるいはご自分のお考えなど、山本常朝先生がご自分の後学のために覚えておいでであったものを、拙者(田代陣内)が、お聞きしたまま書きつらねたものである。人が見たら、腹を立て、遺憾に思うにちがいない。それゆえ、先生(山本常朝)も必ず焼きすてるようにと、くれぐれも仰せられたのである。」
宝永七年三月五日

佐賀が生んだ古典としての葉隠が読み継がれる幾つかの理由がある。
時代を隔てた歴史上の事柄を話題とするには虚実の描写に真実の影を映す巧みな力量が備わっていなければならない。
冒頭に記述された「必ず焼きすてるようにと、くれぐれも仰せられたのである。」冒頭から自己否定的な言葉で始まるこの書“葉隠” の名称を史学的な含蓄としての読み取りを考える事はこの書が国学としての(歴史)題材とする理由からです。
人間社会の虚実は人間社会の生に依るところであります。

白昼の太陽は隠すことなく万人の観るところである。しかし真実の御天道様と云えども肉眼で凝視する事は出来ない。木陰の葉々を通して看る日差しの陰に“人の生”の真実を看ることが出来るのである。葉隠の書かれた時代を考える所以の話である。「秘すれば花」はこの国の伝統文化として有るが「焼き捨てるべき物」を【国学・歴史書】の文化史として存在している我が国の文化的豊の価値を伝えていく事も大切である。

葉隠の成立は享保元年(1716)9月10日とあり山本常朝の次の最後の言葉で終わっている。
「いまの家老衆、年寄衆では心もとないところがある。国学(鍋島家の伝統、事蹟等)を知らず、正邪を見極めようともせず、才にまかせて事をなし、諸人はいくつばって恐れいりごもっともばかり言うので、自慢、私欲が生じものであると常朝先生は言われた。」

田代陣基が記述したとされる原本「葉隠」は存在しない。
存在しない理由は幾つかあるが(始めから存在しない)も「葉隠」の真の姿にふさわしいのかもしれない。

【葉隠】の成立事情

鍋島藩の国学としての葉隠が生まれる為の外的環境は宝永5年(1708)イタリアローマの宣教師ジドッチの屋久島への来着に端を発している。
6代将軍家宣に仕えた学者、政治家として知られる新井白石と宣教師ジドッチの奇遇が幕末から明治にいたる近代日本国家への扉を開く要因となった大きな出来事であったことは歴史に刻まれている。
ジドッチの尋問から成った新井白石の「西洋紀聞」の内容は長崎を外交と通商の窓口とする幕府にとっては再重要事項の情報であり鍋島藩の時代に対応する為の意識改革こそが求められるところであった。
このような時代の要請としての葉隠成立を考える場合、国学葉隠の中に幕府の存在を第一とする新井白石の史観の影響は無視出来ないところであります。
新井白石の史観を儒教によるとされる。

人間の営みとしての歴史に仏教の根本教理である(因果律)をもって中国王朝の興亡を描いた「『史記』の編者司馬遷(紀前145年~86年)」は紀前97年に『史記』を完成したとされる。仏教は紀前500年頃に興っているが中国に仏教が伝えられたのが紀前2年頃とされているので史記を中国の最高の古典とし儒教的な史観とされる。
新井白石の「読史余論」は要するに徳川幕府を歴史の必然として擁護する立場である。
しかし幕府内には同じく儒教的な史観をもって編纂された水戸光国の「大日本史」1657年~1906年に完成された朝廷崇拝の「水戸学」があった。幕末の尊王思想として幕末から明治の近代国家に至った政治思想である。
新井白石の史観は徳川御三家の一つ水戸藩の権威に対持するものであった。いえば幕府内の「お家騒動」の要因としての“火種”があったということである。幕末から明治維新に至る流れの源流は“此処に”湧き起っています。
宣教師ジドッチの屋久島への来着と新井白石とジドッチの奇遇というタイミングは「葉隠」成立の為の外的要因を満たすものと考えられます。
極東島国の内部構造に変化を起こすのは外来の波によるところが常であり、長い鎖国政策において西洋の情報源をオランダとの通商を専らにおいていた幕府が宣教師ジドッチの尋問から成った新井白石の「西洋紀聞」は長崎の窓口から見る海洋の景色が何時しか迫りくる西洋列強の脅威としての風景に映ったとしても不思議ではない。
この様な時代の危機感によって成立した「葉隠」は上位から家中に対する意識改革の書として成ったとする事の方が自然である。
ご両家(龍造寺・鍋島)」の政権交代には公儀(幕府)承認があり、“葉隠”成立の一つ要因である。当時の公儀承認に対する抗議としての(御家騒動)劇の流布も又“葉隠”成立の一つの要因を成すものであったとしても、日本全体を動かすような「宣教師ジドッチの屋久島への来着」こそが“葉隠”成立の外的要因ではなかったかと信じるところである。
“葉隠”の完成は享保元年(1716)であるが、その前年正徳5年(1715)には新井白石によるオランダ、中国船との貿易を制限する【長崎新令】が発されたのである。

常朝(最後の言葉)

「いまの家老衆、年寄衆では心もとないところがある。国学(鍋島家の伝統、事蹟等)を知らず、正邪を見極めようともせず、才にまかせて事をなし、諸人、はいくつばって恐れいり、ごもっともばかり言うので、自慢、私欲が生じものであると常朝先生は言われた」
鍋島藩家中の藩士に対する意識改革の書の「葉隠」の目的が語られているのである。
身分に拘らない、努力と実力を最優先する藩政の人材登用の兆しが宣された「葉隠」誕生である。
天明1年(1781)藩校弘道館創設から遡ること65年前の事である。

幕末の思想(佐幕と勤王)

幕末の思想(佐幕と勤王)
徳川近世に興った政権交代に伴う(御家騒動)は徳川政権発足の当時、日本の至る所で興った政治状況の一つである。多くの戦国大名が歴史の波に消え去る中で徳川幕藩体制における肝要としての親藩を任じ、単に近代化の一翼を担ったと言うだけの話ではなく鍋島藩の歴史を知ることは日本の歴史を知る事である。
幕末期においての鍋島藩の行動を(佐幕と勤王)二股と単純に判断することが出来ないの理由は(徳川幕府)の肝要としての親藩を務める藩の国学、“葉隠”の成立にも徳川家の事情としての(佐幕と勤王)の相反する矛盾の同居があるからである。
高傳寺の境内にある副島種臣の墓には実兄の枝吉神陽顕彰碑の建立がある。この碑は大隈重信が発起人となって建てられたものであるが、当初より神陽の墓に寄り添って建っていたのではなく平成13年7月現高傳寺住職の発願により、枝吉家の墓よりすこし離れたところにあった碑を幕末の佐賀を象徴する史跡として改修されたものである。
現在は平成23年9月佐賀大学文化教育学部・近藤則之教授による「顕彰碑」の漢文読み下し文の案内が添えられている。幕末の日本を代表する佐賀の思想家・枝吉神陽の尊王思想は明治に至る討幕思想の魁として知られてる。
佐幕と討幕の両面を含みながら鍋島藩が果たした歴史の流れは「近代史」に刻まれた怒涛である。

あとがき

高傳寺文化事業の紹介について 「高傳寺の歴史と文化をグローバルな視点において捉え佐賀観光の活性に応えようとするものであります。
①涅槃塔建立事業②文化財の公開  平成13年~平成22年の間に行われました大涅槃図修復事業は 当初の想定を超えた形において実現されました。現在、涅槃塔建立事業及び米国ロサンゼルス高傳寺展開催事業を一体事業として実現の為のプロジェクト活動が展開されています。
高傳寺の歴史と文化が日本仏教史の“節目”に当たり伝承の検証も新な観点から求められることになります。明治・近代化の終着としての【日米の歴史】を考える時、高傳寺の歴史的使命としてロサンゼルス高傳寺展、への御理解と御賛同の輪を広く願うところであります。

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    毎週水曜日 午前5時半より高傳寺本堂にて